先日、「日本の漢詩文」で、福澤諭吉が当時世界的に大流行していた「ロシア風邪」に罹患した際に詠んだ漢詩(「辛卯一月罹流行寒冒熱戲賦」※「寒冒」は正しくは「感冒」)を紹介したのですが、その際に、この「ロシア風邪」の原因病原体が実は従来考えられていたインフルエンザウイルスではなく、コロナウイルスだったらしいということに触れました。この「明治の新型コロナ」がどのようなもので、どのような経過をたどったのかを知っておくことは、現在の新型コロナについて考える上でも参考になるのではないかと思うので、場所を汎兮堂Healthに移して、まとめておこうと思います。



発生からパンデミック、そして収束

ロシア風邪は、1889年5月、ロシア帝国領(正確には保護国)だった中央アジアのブハラ(現在ウズベキスタン共和国)で最初に確認され、10月には帝国の首都サンクトペテルブルクへ飛び火して住民の半数以上が感染する事態となり、さらに12月には全ヨーロッパへ流行が拡大し、英国のヴィクトリア女王の孫アルバート・ヴィクター王子もこの流行で命を落としました。


米国でもニューヨークで最初の感染が確認されると、たちまち全国へ流行が拡大し、1万3千人が亡くなりました(当時の米国の人口約6千万人)。マサチューセッツ州における超過死亡を見ると、1890年1月に最初のピークを示した後、1892年の1月には8.92(人口千人あたり)という最大のピークを迎えています[1]


日本では1890年(明治23年)の冬になって本格的な流行が始まり、翌91年(明治24年)の春にかけて大流行しました。このときの超過死亡(人口千人あたり)は東京府1.70、神奈川県2.20で、1918~20年のスペイン風邪(東京府3.56 神奈川県2.71)に準ずるものだったとされます[2]


その後、1895年まで再流行を繰り返すうちに、人類は集団免疫を獲得し、感染は収束していきました。世界全体では約100万人(当時世界人口約15億人)がこのパンデミックで亡くなったとされます。


[1] 西村 秀一『インフルエンザ流行の歴史と今回のパンデミックの位置付け』(第8回みちのくウイルス塾2009年9月19・20日)

[2] 逢見憲一『公衆衛生からみたインフルエンザ対策と社会防衛―19世紀末から21世紀初頭にかけてのわが国の経験より―』(保健医療科学 58(3), 236-247, 2009-09)


日本での流行と人々の反応

お札で「お染かぜ」を防ぐ?

日本でインフルエンザの訳語として「流行性感冒」という語が用いられるようになったのは、このロシア風邪の時だったとされていますが(後述のとおり、現在ではロシア風邪はインフルエンザではなくコロナウイルスだとする説が有力)、民衆の間では、人気芝居「お染久松」にちなんだ「お染かぜ」という呼び名のほうが広まりました。そのため、病魔の「お染」に取りつかれるのは「久松」であるということで、お染の侵入を防ぐために、家の玄関に「久松留守」という紙札を貼ることが流行したといいます。岡本綺堂の随筆『思ひ出草』には当時の状況が以下のように描かれています。


すでに其の病がお染と名乗る以上は、これに憑りつかれる患者は久松でなければならない。そこで、お染の闖入を防ぐには「久松留守」といふ貼札をするが可いと云ふことになつた。新聞にもそんなことを書いた。勿論、新聞ではそれを奨励した訳ではなく、単に一種の記事として昨今こんなことが流行すると報道したのであるが、それが愈ゝ一般の迷信を煽つて、明治廿三四年頃の東京には「久松留守」と書いた紙礼を軒に貼付けることが流行した。中には露骨に「お染御免」と書いたのもあつた。

 

興味深いのは、新聞が「こんなことが流行している」と報道することでさらに流行に拍車がかかった、ということです。今回の新型コロナでは、昨年、Twitter発のデマが原因でトイレットペーパーなどが入手困難になるという騒ぎが起きましたが、これも問題のツイート自体によってではなく、マスコミが「Twitterでこんなデマがツイートされている。問題だ」と取り上げたことによってかえって買いだめが広まったということが明らかになっています。報道がその意図とは関係なく(時には正反対に)人々の行動に影響するということは十分注意しないといけないことでしょう。


福澤家の家庭内感染

日本の漢詩文」で取り上げたとおり、福澤諭吉はこのロシア風邪に感染、1890年(明治23年)の12月26日に発症し、年明け元旦に解熱した後もしばらく体調不良が続いたようですが、1月7日にはほぼ快復したと、中上川彦次郎(福澤の甥。時事新報社長、山陽鉄道社長、三井銀行専務理事など歴任)宛の手紙(1月7日付)に書いています。


老生事は十二月廿六日発病、一月一日に至り全く解熱致し候得共、甚だしき衰弱を遺し、百事視ることも聴くことも不出来、昨日まで空しく日を消し候処、夜前より今朝に掛け精神一転、大に快く相成、此分には両三日中に旧に復し可申

 

福澤自身は快復しましたが、福澤家のロシア風邪はむしろこれからが本番でした。おそらく福澤が感染源となり、家庭内感染が起こり、下男下女を含めて一家のほとんどが発病し、一時は家事の遂行に支障が生じたと、次男捨次郎宛の手紙(1月24日付)に書かれています。


留守宅の病人は、第一拙者、次に一太郎、乃母、次におしゅん、お滝にて、お光も半日計り、夫れよりお里、何れも先づ全快の処、四日前より大四郎に及び、おふさは産の前後に同様、是れも已に解熱、唯今日熱のあるものは大四のみ。三八と愛作は今日迄無事なり。下女も四、五人順番に煩ひ、一時は飯を炊く者なく、下男が台所を働くの始末、家事紊れて麻の如し

 

文中登場する人名ですが、「一太郎」は長男、「乃母」は「なんじの母」ですから捨次郎の母、つまり福澤の妻(お錦)です。おしゅん(俊)は三女、お滝は四女、お光は五女、お里は長女、大四郎は四男、おふさ(房)は次女、三八は三男、愛作は孫(長女お里の長男)です。手紙の宛先である次男捨次郎は幸いにもこの時家を離れていたおかげで感染を免れたと思われますが、当時の流行の状況を考えれば別の経路で感染した可能性はあります。


さらに別の手紙(山口広江宛1月28日付)からは、周辺の感染状況や逼迫する医療体制までも生々しく伝わってきます。


拙宅にても一月一日以来、香奠を出したる数、十余軒に達したり。・・・・府下の医師にて一ヶ年千人の患者あれば先づ相応の開業医と申す処に、松山棟庵氏方には一月中に千何百の数に達したり。医師は夜中も不眠は勿論、三度の食事する暇も無之よし


ひと月に満たないうちに、福澤の家と縁のある者だけで十余人が亡くなったというのですから、尋常ではありません。心配なのは、松山棟庵医師で、現在のような感染防御手段もないなかで、不眠不休で診療にあたっていたようですが、これではいずれ本人が感染してしまったのではないかと思ってしまいます。


ロシア風邪を引き起こした19世紀末の新型コロナは現在の風邪コロナ

さて、このように19世紀最後にして最大のパンデミックとなったロシア風邪ですが、当時の人はこれをインフルエンザだとみなしていました。ただし、当時、インフルエンザウイルスは発見されておらず、インフルエンザの原因病原体は不明でしたから、何か根拠があってインフルエンザだと同定されたわけではありません。それでも、長い間、ロシア風邪はインフルエンザだという推測が支持され、H3N8型インフルエンザウイルスなどが原因ウイルスとして挙げられてきました。


しかし、21世紀に入って、ヒトコロナウイルスの一種であるHCoV-OC43(ヒトコロナウイルスOC43)がロシア風邪の原因だったとする説が提起され、現在では有力な説となっています。根拠は、伝えられている症状(神経症状が顕著)がインフルエンザよりもHCoV-OC43感染症に合致すること、分子時計解析によりHCoV-OC43は1890年前後にウシコロナウイルス(BCoV)からの変異によって出現したことが裏付けられたことです[3]。実は、19世紀後半、牛肺疫というウシの感染症が世界的に流行し、1870~1890年にかけて、世界各国で呼吸器症状を発症した牛の殺処分が大規模に行われました。処分された牛の中に、牛肺疫だけでなくウシコロナウイルス肺炎に罹患した牛も含まれていて、そのために処分作業員の一部がウシコロナウイルスに感染した可能性があります。そして、ヒトの体内でウシコロナウイルスからHCoV-OC43への変異が起こってヒトからヒトへの感染能力を獲得し、大流行につながったというわけです。まさにこれは当時の新型コロナにほかなりません。動物由来のコロナウイルスが変異によってヒトからヒトへの感染力を獲得して新型のヒトコロナウィルスが誕生したという点も、現在の新型コロナ(SARS-CoV2)と共通しています。


すでに述べたとおり、1890年代後半には人類はHCoV-OC43に対する集団免疫を獲得してロシア風邪は収束しました。現在では、HCoV-OC43は普通の風邪の原因ウイルスのひとつにすぎず、致死的なものではなくなっています。発症する患者の多くは小児で、成人の場合は9割がIgG抗体を保有していると推定されています[4]


現在の新型コロナも、19世紀末の新型コロナHCoV-OC43と同様に、いずれは普通の風邪コロナになることは推測できますが、それに何年かかるのか、どのような経過をたどるのかは予測困難です。19世紀末と現在では人類社会の様相も全く異なっているため、ロシア風邪に関する知見をそのまま現在のコロナ禍に活かすことも難しいでしょう。それでも、人類はすでに一度「新型コロナ」を克服しているという事実は、我々に勇気と自信を与えてくれるのではないでしょうか。


[3] Leen Vijgen, et al., "Complete Genomic Sequence of Human Coronavirus OC43: Molecular Clock Analysis Suggests a Relatively Recent Zoonotic Coronavirus Transmission Event" Journal of Virology 2005 Feb; 79 (3): 1595–1604.

[4] Emily G. Severance, et al., "Development of a Nucleocapsid-Based Human Coronavirus Immunoassay and Estimates of Individuals Exposed to Coronavirus in a U.S. Metropolitan Population" Clinical and Vaccine Immunology 2008 Dec;15(12):1805-10.