メルドニウムとはどんな物質? ― シャラポアのドーピング報道で一躍有名に
禁止物質メルドニウム
世界アンチドーピング機構(WADA)はドーピングの取り締まりのため、対象となる具体的な物質・方法を定めた「禁止表国際基準」というものを公表しています。ドーピングとその取り締まりはいたちごっこで、どちらも次々と新たな技術が生み出されるので、禁止表国際基準も毎年改訂されます。毎年10月に改訂内容が公示され、翌年1月から施行となります。2016年1月の改訂で、メルドニウムという物質が新たに禁止物質に加わりました。日本をはじめ世界のほとんどの国で医薬品として認可されていない物質ですが、ロシアやラトビアなど旧ソ連の数ヶ国では狭心症や心筋梗塞の治療薬として認可され、かなりポピュラーな薬だと言います。
メルドニウムの歴史
メルドニウム(meldonium / IUPAC名:2-(2-カルボキシエチル)-1,1,1-トリメチルヒドラジニウム)はバルト三国のひとつラトビアで1970年代に家畜の成長を早める薬として開発され、その後、心臓の働きを改善したり、血流を改善したりする効果がわかり、狭心症などの治療薬として認可されるようになったそうです。現在、先発品は「ミルドロネート(Mildronate)」という商品名で発売されていますが、すでに特許が切れているため、ジェネリック品も多数販売されています。また、ロイター通信によると、1980年代のソ連のアフガニスタン侵攻の際、標高が高く酸素濃度の低い現地で兵士のスタミナを増強するためにソ連軍がこのメルドニウムを配布したとのことです。これは私の想像ですが、このときにメルドニウムの効果を体験した兵士たちが国へ帰ったあと、「スタミナを高めるいい薬がある」という情報を広めたことによって、この薬を(正規あるいは非正規に)入手して使用する人が増えていった可能性があります。
ドーピング規制の分野でメルドニウムが注目されるようになったのは比較的最近です。2015年1月の改訂ではじめて「監視物質」のリストに入りました。監視物質というのは、禁止物質ではないが、濫用の有無を監視するために検査の対象になる物質のことです。つまり、2015年から、メルドニウムは尿検査や血液検査を通じて、どの程度の選手からどの程度の量が検出されるのか調査され、濫用されていないか監視されることになったのです。ただし禁止物質ではないので、尿検査や血液検査でメルドニウムがどれだけたくさん検出されたとしてもこの時点ではドーピングにはなりませんでした。
さて、監視物質となったことで濫用の有無が調査された結果、なんとロシアの選手から採取した4316検体のうち724検体からメルドニウムが検出されたといいます。トップ選手の6分の1が心疾患などということはありえず、明らかに競技力向上目的での濫用と考えられる結果です。
このような調査結果を受けて、WADAは競技力向上目的でのメルドニウム濫用が蔓延していると判断、2016年から禁止物質に加えることを決定し、2015年9月には発表しています。同年10月にはメルドニウムを含む2016年禁止表国際基準が公示され、2016年1月から施行されました。
メルドニウムの作用機序(1) 脂肪酸代謝阻害
ロシアなどで狭心症などの治療薬として認可されているメルドニウムですが、ほかにも免疫の活性化、中枢神経系の機能活性化、疲労回復の促進などの効果があるといわれています。では、その作用機序はどのようなものなのでしょう。メルドニウムはγ-ブチロベタインヒドロキシラーゼという酵素を阻害することにより、L-カルニチンの生合成を阻害します。酵素γ-ブチロベタインヒドロキシラーゼ(ややこしいので以下、「酵素」とだけ呼びます)はγ-ブチロベタインという物質を原料にして加工し、L-カルニチン(これも以下、「カルニチン」とだけ呼びます)を作りだすのですが、そのためにはまずγ-ブチロベタインとくっつかなければなりません。ところが、メルドニウムが存在すると、メルドニウムとγ-ブチロベタインは構造が似ているので、酵素は本物の原料であるγ-ブチロベタインと間違えてメルドニウムとくっついてしまい反応が進みません。つまり、メルドニウムというバッタ物がまぎれこむことでカルニチンを作ってくれる酵素の仕事が邪魔され、合成されるカルニチンの量が減ってしまうわけです。
メルドニウムが体内のカルニチンの量を減らすということはわかりました。では、カルニチンの量が減るとどのような影響があるのでしょうか。
最近ではサプリメントとして広く販売されるようになったので、カルニチンという名前を聞いたことのある人は多いかもしれません。カルニチンは脂肪酸を細胞質からミトコンドリアの中へ運搬する役割を果たしています。カルニチンによってミトコンドリアの中へ運び込まれた脂肪酸はβ酸化という反応経路を経てアセチルCoAという物質に分解されます。1個の脂肪酸から何個ものアセチルCoAが作りだされ、そのアセチルCoAはクエン酸回路という反応回路の原料になります。β酸化とクエン酸回路の反応過程で生み出されたNADHやFADHなどの物質は次の電子伝達系という連鎖反応系に手渡され、そこでエネルギー物質であるATPを作りだす原動力になります。
一方、アセチルCoAは脂肪酸のβ酸化によってのみ生み出されるわけではありません。糖(グルコース)が解糖系という反応によって分解されることでも生み出されます。つまり、アセチルCoAは糖と脂肪酸という2つの供給源を持っているということであり、いいかえれば糖代謝と脂肪酸代謝の合流点がアセチルCoAであるということになります。
エネルギー産生工程の原料として脂肪酸と糖の2つが存在するわけですが、両者にはどのような違いがあるのでしょう。まず、効率という点では脂肪酸のほうが圧倒的に優れています。同じ質量の脂肪酸と糖から最終的に産生されるエネルギー物質ATPの量を比べると、脂肪酸のほうが糖の倍以上になります。また、安定供給という点でも脂肪酸のほうがすぐれています。糖は生体内で非常に貯蔵がしにくい物質のためすぐに枯渇してしまいます。一方、糖がすぐれているのはスピードです。解糖系によるATP産生速度はクエン酸回路・電子伝達系によるATP産生速度の約100倍にもなります。β酸化自体は直接ATPを産生しないので、脂肪酸から生み出されるATPはもっぱらクエン酸回路・電子伝達系によるものですから、解糖系はβ酸化の100倍速くATPを産生すると言いかえることもできます。また、解糖系は酸素を全く使用せずにATPを産生することができるというのもβ酸化にはない長所です。以上のことをまとめると、脂肪酸のほうは高効率・低速のエコ運転で燃料供給は安定だが酸素が必要、これに対し糖は低効率・高速のパフォーマンス重視運転で燃料供給は不安定だが酸素がなくても運転可能、ということになります。
このような両者の違いを反映し、心臓の筋肉はエネルギー産生の原料として脂肪酸を優先して使用するようになっています。なにしろ、心臓は絶対止まってはいけませんし、朝も夜もずっと動き続けるためには安定と効率を優先しなければならないので、脂肪酸のほうが向いているのです。
さて、ここでメルドニウムの作用に戻りましょう。メルドニウムによってカルニチンの合成が阻害されミトコンドリアへの脂肪酸の供給が減少すると、普段、脂肪酸を優先して使用している心筋も強制的に糖を原料に切り替えることになります。そうなると酸素を消費しない解糖系のウェイトが増し、心筋の酸素要求量が減りますので、冠動脈の血流量減少により心筋への酸素供給が低下した状況でも心臓の機能を維持することができます。このことから狭心症など心臓の虚血症状に効果があると考えられます。また、心筋の酸素消費が減少した分、他の組織へ酸素をまわすことができるようになり、これがスタミナ増強や疲労回復の促進などに寄与している可能性があります。
また、肝臓の細胞では、「糖新生」といって、解糖系の反応経路を逆流して糖を作りだす経路があるのですが、この経路を進めるには、脂肪酸のβ酸化によってつくられるNADHやFADHが必要なため、メルドニウムによって脂肪酸の供給が阻害されることで肝臓での糖新生が抑制されることになります。一方、脂肪酸供給の低下を補うために糖の消費が増大するので各組織で糖の取り込みが促進されます。これら2つの作用により血糖降下の効果が期待されます。ただ、現在、非常に優れた血糖降下薬がたくさん存在するなかで、あえてメルドニウムを使用する意味があるかどうかは不明です。
メルドニウムの作用機序(2) eNOS活性化
ここまで、カルニチンの産生阻害の面からメルドニウムの作用を説明してきましたが、実はもうひとつ別の面での作用もあるようです。先に述べたように、メルドニウムはγ-ブチロベタインヒドロキシラーゼという酵素がγ-ブチロベタインからカルニチンを作りだすのを邪魔します。その結果、生成物であるカルニチンの量が減るわけですが、一方で原料であるγ-ブチロベタインは消費されずにたまっていくことになります。生体内にはγ-ブチロベタインをエステル化する反応経路も存在するので、蓄積されたγ-ブチロベタインはそちらの経路で消費され、γ-ブチロベタインエチルエステルの産生量が増します。このγ-ブチロベタインエチルエステルが対応する受容体を刺激し、それによって引き起こされるシグナル伝達を経て内皮型一酸化窒素合成酵素(eNOS)を活性化させることになります。eNOSの活性化により血管拡張作用のある一酸化窒素(NO)の合成が増加して血流が改善します。脳はもともと糖のみをエネルギー源として利用しているので、カルニチンの産生阻害による影響は受けないはずですから、中枢神経系の活性化作用は、このeNOS活性化による血流改善によるものだと推測できます(”Mildronate: an antiischemic drug for neurological indications.” Sjakste N, et al.,CNS Drug Rev. 2005 Summer;11(2):151–68.)。シャラポアの事例について
さて、シャラポアは、「不整脈と糖尿病の家族歴」のために10年間にわたって医師に処方されたメルドニウムの服用を続けてきたと説明しています。メルドニウムはロシアでは認可されているため、普通に病院で医師に処方してもらうことができますが、シャラポアは20年以上も米国に在住しています。米国ではメルドニウムは認可されていないので通常医師が処方することはありません。医師からもらえるとすれば、医師が外国から個人輸入したものを処方してもらうということになります。医師による個人輸入は米国でも日本でも認められており、国内で承認されている医薬品では治療の効果が見られず、国内未承認の外国の医薬品で効果が期待される場合におこなわれます。ただ、シャラポアの場合、単純に治療目的で考えて、わざわざ個人輸入してまで使用する値打ちがメルドニウムにあるとは思えません。上でも述べましたが、不整脈にせよ糖尿病にせよ、メルドニウムよりずっと効果も安全性もきちんと検証されてエビデンスが豊富な薬がたくさんある中で、それらのすぐれた薬を使わずにあえてメルドニウムを使う理由は説明できないでしょう。いずれにせよ、メルドニウムが禁止物質に加えられた以上、それを使用するためには、TUE(治療使用特例)を申請し承認を得なければなりません。ただ、TUEが承認されるためには禁止物質でない他の薬で代替できない理由を医学的に説明しなければなりませんから、仮にシャラポアがTUEを申請していたとしても承認される可能性は低かったと思います。ロシアではポピュラーでも世界的にはマイナーな医薬品だったメルドニウムですが、今回の報道で急に有名になりました。今後、いろいろと研究が活発になるかもしれません。また、個人輸入希望者が世界的に増加しているようで品薄になっているようです。しかし、上で述べたように脂肪酸の消費を阻害するわけですから、服用を続ければ脂肪酸がどんどん蓄積されてしまいます。そもそもカルニチンの量が減って不足してしまうのは「低カルニチン血症」というれっきとした病気であって、程度の差こそあれ、メルドニウムは意図的に低カルニチン血症を引き起こす薬だと言えます。そんな薬を手軽に使用して大丈夫なのでしょうか。ひょっとするとシャラポアもメルドニウムなんか服用していないほうがいいパフォーマンスができたんじゃないかという気がしないでもありません。
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