ハイポキセン

その後に出てきた情報

先日からワリエワ選手のドーピング疑惑について記事を書いていたのですが、追記だらけになって収拾つかなくなりかけたので、稿をあらためることにしました。


前回記事の最終の追記以降、さらにいくつか新しい報道が出てきました。まとめると、

・ワリエワ選手側の主張によれば、ワリエワ選手の祖父が心疾患のためトリメタジジンを服用しており、その祖父とコップを共用したために、意図せずトリメタジジンを摂取してしまったかもしれない、という。

・米国アンチドーピング機関(USADA)のトラビス・タイガート委員長によると、ワリエワ選手の尿サンプルから検出されたトリメタジジンの濃度は、サンプル汚染による陽性と判明した他の例と比較して200倍だった。

・トリメタジジンのほかに、禁止物質ではない「ハイポキセン」「L-カルニチン」も検出された。これらの物質の服用については、検査時に申告がなされていた。


トリメタジジンに加えて、あらたな物質が登場しました。ただし、どちらも禁止物質ではありません。L-カルニチンについては、日本でもサプリで販売されているくらいなので、なんとなくご存知の方も多いでしょうから、こちらは後回しにして、おそらくほとんどの人が初耳だと思われるハイポキセンについて述べておきましょう。


ソ連科学アカデミーが開発:ハイポキセン

ハイポキセンの正式名称は(ポリ(2,5-ジヒドロキシフェニレン))-4-チオスルホン酸ナトリウムで、末端にチオスルホン酸基が結合したジヒドロキシフェニレンの繰り返し単位を2~6個含む高分子混合物です(冒頭の構造式を参照)。


1976年にソ連科学アカデミー高分子化合物研究所の科学者グループによって開発された物質で、抗低酸素作用と抗酸化作用を持ち、失血や火傷、呼吸器疾患、肺炎などによる酸素供給不足、低酸素症、また心筋梗塞による心臓へのダメージに対する治療に用いることができるそうです。さらには抗不安、気分改善、アルコール離脱症状の緩和などの効果も示唆されているらしいですが、本当ですかね。


ロシアでは1996年に医療用医薬品として承認され、OTC薬として処方箋なしでも購入できるとのことですが、世界的に広く利用されていないところを見ると、たいした効果ではなさそうな気がしますが、どうなんでしょうか。個人的には「ソ連科学アカデミーが開発!」というだけでエロ雑誌の裏表紙で広告している胡散臭い商品みたいに思えてしまいます(←すごい偏見)。


作用機序としては、ミトコンドリア内膜の電子伝達系を阻害しているというラット肝ミトコンドリアでの結果があるようですが( "The drug hypoxen: A new inhibitor of mitochondrial respiration and dehydrogenases". Biology Bulletin of the Russian Academy of Sciences. 37, 346–350 (2010) )、広く検証されているわけでもなさそうです。


L-カルニチン

カルニチンについては日本でもサプリとして販売されているので、トリメタジジンやハイポキセンに比べればはるかに知名度は高いはずです。ミトコンドリア膜に存在し、細胞質の脂肪酸をミトコンドリア内へ運搬するはたらきを持っています(詳しくは「メルドニウムとはどんな物質?  ― シャラポアのドーピング報道で一躍有名に」をご覧ください)。


前回記事で書いたとおり、トリメタジジンは脂肪酸のβ酸化を阻害することで薬理作用を示すと考えられています。これに対して、カルニチンのほうはミトコンドリア内へ脂肪酸を送りこんでβ酸化を促進するので、両者は相反する作用を持つと言えます。併用することで互いの作用を相殺してしまうので、普通に考えれば、ドーピング目的で両者を併用する意味がありません。トリメタジジンのβ酸化阻害効果が十分に強ければ、カルニチンによってミトコンドリア内へ送り込まれた脂肪酸が消費されず蓄積されていくという結果をもたらすでしょうが、それが何らかのドーピング効果をもたらすのでしょうか。「両者の併用が意図的なドーピングであることを示す」だとか「うまい組み合わせだ」とかいう内外の見解を報道で見かけましたが、それはどういう根拠に基づいた見解なのか、聞いてみたいです。


検査時の服用薬申告について

ワリエワ選手は、ハイポキセンとカルニチンの服用について検査時に申告していたとのことです。参考までに、この検査時の申告について説明しておきます。この申告はTUE(治療使用特例)とは全く関係なく、「この申告をしてあれば禁止物質が検出されても許される」というたぐいのものではありません。むしろ、「禁止物質以外の薬物」服用の情報を検査機関に提供するための申告です。


たとえば、前回記事で触れたように、汚染製品が原因で禁止物質が検出された場合、処罰が軽減されますが、それを主張する際に、検査時に服用薬をきちんと申告してあることが重要な意味を持ちます。Aという禁止物質が検出された場合に、「それは普段から服用している非禁止物質Bの薬にAが混入していたからだ」という主張をする際、検査時にBを服用していることを申告していないと信憑性が低くなるわけです。「どうして最初からBを服用していることを申告してないの?(やましいことがあるのでは?)」と見られても仕方ないですよね。


メダルには影響なくなったが

結局、ワリエワ選手は4位に終わったため、処罰がどういう結果になろうと、上位3選手の結果、つまりメダルの行方には影響しないことになりました。しかし、ワリエワ選手のドーピングについての調査と処分の決定はこれからです。今回の騒動でアンチドーピング体制の権威が大きく傷ついたことは間違いありません。信頼の回復につながる、論理的で明快な処分が下されることを願います。


追記(2023.01.12)

2023年版禁止表国際基準で、ハイポキセンが「監視プログラム」に掲載されました(禁止物質ではありません)。詳細は「2023年禁止表国際基準の変更まとめ」を参照。


追記(2023.01.16)

1月13日、RUSADA(ロシアアンチドーピング機関)がワリエワ選手の処分について「ドーピング違反は認められるが、本人の過失はなかった」として、トリメタジジンが検出された2021年12月のロシア選手権のみを失格とし、それ以外の制裁を科さないことを発表しました。WADA(世界アンチドーピング機関)は昨年11月に、ワリエワ選手に4年間の資格停止処分を科すことなどを求めてCAS(スポーツ仲裁裁判所)に提訴しており、今回のRUSADAの判定に対しても疑念を呈し、判定に至った経緯を明らかにする資料を提出するよう求めています。