連日、世界のトップアスリートが熱戦を繰り広げている北京冬季五輪ですが、一部報道で、フィギュアスケート団体で優勝したROC(ロシア五輪委員会)のワリエワ選手がドーピング検査で陽性を示したと伝えられました。陽性反応が出た禁止物質は「トリメタジジン」だといいます。現時点で真偽は不明ですが、せっかくの機会なので、このトリメタジジンについて取り上げてみたいと思います。


禁止表国際基準での分類

まずは、このトリメタジジンが本当に禁止物質なのか、Global DROで調べてみましょう。


トリメタジジンDRO検索

確かに禁止物質です。禁止表国際基準での分類では「S4 ホルモン調節燒および代謝調節薬」に属するので、競技種目の限定なく、「競技会時」でも「競技会外(つまり日常時の抜き打ち検査)」でも禁止となります。


念のため、禁止表国際基準も見てみましょう。


禁止表国際基準トリメタジジン

確かに、「S4 ホルモン調節燒および代謝調節薬(HORMONE AND METABOLIC MODULATORS)」の「4. 代謝調節薬(METABOLIC MODULATORS」の中にトリメタジジン(Trimetazidine)が入っています。そして、トリメタジジンの上には、かつてシャラポアのドーピング事件で有名になったメルドニウム(Meldonium)も記載されていますね。


なお、余談ですが、トリメタジジンは2014年に禁止表に追加され、その時は「S6 興奮薬」に分類されていましたが、2015年に「S4 ホルモン調節燒および代謝調節薬」のセクションに移動されました。これにともない、競技会外での使用も禁止となっています。このように、禁止表国際基準では毎年の改定で禁止物質の分類が変更されることがよくあり、それによってトリメタジジンのように禁止範囲が変化することもあるので、禁止物質の追加・削除同様に注意が必要です。


日本の臨床での使用

トリメタジジンは日本では正規の医療用医薬品として承認されています(商品名:バスタレルF®)。

バスタレルF

硝酸薬やCa拮抗薬以外の「その他の冠拡張薬」に属する薬で、適応は「狭心症、心筋梗塞(急性期を除く)、その他の虚血性心筋症」となっています。冠動脈を拡張することで心筋への血流を回復させるというのが基本的な作用ですが、作用が類似するニコランジル(商品名:シグマート®)と比べるとマイナーなイメージが否めません。ただ、冠動脈拡張作用だけでなく、心仕事量減少作用、副血行路形成促進作用、心筋代謝改善作用、心筋保護作用、血小板凝集抑制作用など多彩な薬理作用を備えていることから、単純にニコランジルで代用できるというものでもないようです。実際、ニコランジルのほうは禁止物質にはなっていません。

なお、ロシアでの承認状況、臨床での使用状況についての知識は持ち合わせていませんが、少なくとも15歳のトップアスリートに処方されるような薬でないことは確かです。万一、治療のために必要だったとしても、TUE(治療使用特例)の付与を受けることなく使用すればドーピングとなります。

トリメタジジンの作用機序


トリメタジジンの作用機序は必ずしも明確ではないものの、脂肪酸のβ酸化の最終段階を触媒するβ-ケトアシルCoAチオラーゼ(別名:3-ケトアシルCoAチオラーゼ、β-ケトチオラーゼ、アシルCoA-アセチルトランスフェラーゼ)を阻害することでβ酸化を抑制し、グルコースの酸化を亢進することが報告されています。作用点は異なりますが、β酸化を抑制するという点は、シャラポア事件のメルドニウムと共通しており、このため、多種多様な薬理作用を示す点も共通しているのだと思われます(β酸化の抑制がエネルギー代謝におよぼす影響については「メルドニウムとはどんな物質?  ― シャラポアのドーピング報道で一躍有名に」で考察しているのでそちらをご参照ください)。


まさかβ酸化の抑制がロシアのお家芸 ― というわけでもないと思いますが、過去に国家ぐるみでのドーピングという前科があるだけに、個人的にはロシアへの視線は厳しくならざるを得ません。これまでもさんざん言い尽くされてきたとおり、ドーピングは当事者だけでなく、他の競技者、さらには大会全体にまで暗い影を落とし後味の悪さを残します。ひいてはスポーツの価値そのものを大きく損ないかねません。ドーピングを憎む者の一人として、ワリエワ選手についての報道が誤報であることを願います。


追記(2022.02.12)

本件について、続報が出てきました。


国際検査機関(ITA)の正式な発表により、ワリエワ選手のドーピング検査で禁止物質のトリメタジジンが検出されたことが明らかにされました。ただし、検出されたのは昨年12月のロシア選手権開催中に行われた検査であり、今回五輪での検査ではないとのことです。


経緯を説明すると、ロシア選手権開催中の昨年12月25日に、ロシアアンチドーピング機関(RUSADA)によって実施されたドーピング検査で陽性反応が出、この結果が今月8日にワリエワ選手に通知されるとともに暫定資格停止処分が下されましたが、翌9日、ワリエワ選手側からの事情説明を受けて処分が解除されたそうです。ワリエワ選手側からの事情説明がどのような内容のもので、どのような理由によって処分が解除されたのかは明らかにされていません。


当然のことながら、IOC(国際五輪委員会)やISU(国際スケート連合)、WADA(世界アンチドーピング機関)は、RUSADAによる不可解な処分解除の決定を不服として、CAS(スポーツ仲裁裁判所)への提訴を表明しました。


禁止物質のトリメタジジンが検出されたという事実自体は、残念ながら確定しました。通常であれば、この場合必ず何らかの処分が下されます。しかし、さまざまな事情により資格停止期間が短縮されたり、なくなったりする場合があります。以下、いくつかのパターンを見てみましょう。


うっかりドーピングの場合

使用された禁止物質が「特定物質」(医療目的で広く使用されていて、競技力向上以外の目的で使用される可能性が高い物質)であり、違反者にドーピングの意図がなく、「重大な過誤又は過失がないこと」を証明できた場合、処分は最も軽いもので「譴責のみ(資格停止なし)」、最も重いもので「2年間の資格停止」となります。トリメタジジンは特定物質に該当します。

10.6 「重大な過誤又は過失がないこと」に基づく資格停止期間の短縮

10.6.1.1 特定物質又は特定方法

アンチ・ドーピング規則違反が特定物質(濫用物質を除く。)又は特定方法に関連する場合において、競技者又はその他の人が「重大な過誤又は過失がないこと」を立証できるときには、資格停止期間は、競技者又はその他の人の過誤の程度により、最短で資格停止期間を伴わない譴責とし、最長で2年間の資格停止期間とする。


汚染製品が原因の場合

検出された禁止物質が汚染製品に由来することが立証された場合、処分は最も軽いもので「譴責のみ(資格停止なし)」、最も重いもので「2年間の資格停止」となります。たとえば、禁止物質を全く含まないはずのAという医薬品を処方されて服用したところ、医薬品Aのメーカーの過失により禁止物質Bが混入しており、そのためにドーピング検査で陽性になってしまった場合が、これに当たります。

10.6.1.2 汚染製品

競技者又はその他の人が「重大な過誤又は過失がないこと」を立証できる場合において、検出された禁止物質(濫用物質を除く。)が汚染製品に由来したときには、資格停止期間は、競技者又はその他の人の過誤の程度により、最短で資格停止期間を伴わない譴責とし、最長で2年間の資格停止期間とするものとする。


「そんなバカなことがあるのか」と思うかもしれませんが、非常に残念なことに、これに当たる事例が過去に日本で起こっています。某後発品メーカーの製造販売するエカベトナトリウム顆粒(胃薬)に禁止物質であるアセタゾラミド(利尿薬)が極めて微量ながら混入していたため、当該エカベトナトリウム顆粒製品を服用した選手がドーピング検査で陽性になってしまったのです。当の選手には全く身に覚えがなかったことから、服用していたエカベトナトリウム顆粒の分析を行ったところ、混入が発覚しました(その後の調査により、混入は当該後発品メーカーの製造工程ではなく、インドのメーカーによる原薬の製造過程で起こったものと判明しています)。


このような場合、本人には何の責任もないので、最も軽い処分の「譴責」でも重すぎるのではないかと個人的には思いますが、ルールとしてはそうなっています。


要保護者・レクリエーション競技者の場合

違反した競技者が一定の条件に当てはまる場合、処分軽減の対象になります。「要保護者」は ①16歳以下 ②18歳以下でかつトップレベルの選手でない ③年齢以外の理由で行為能力を欠く(成年被後見人など) のいずれかに当てはまる競技者のことです。一般の法律でも未成年は権利や責任が限定されますが、それと同様の配慮です。また、「レクリエーション競技者」は、我々市民ランナーのように趣味で競技をおこなっている選手で、トップレベルの大会に参加することのない選手のことです。(詳しくは「2021年世界アンチドーピング規程・禁止表国際基準変更まとめ」を参照)


「要保護者」「レクリエーション競技者」の場合も、先の2つのパターンと同様、処分は最も軽いもので「譴責のみ(資格停止なし)」、最も重いもので「2年間の資格停止」となります。ワリエワ選手は15歳ですから、「要保護者」に当てはまります。

10.6.1.3 要保護者又はレクリエーション競技者

濫用物質に関連しないアンチ・ドーピング規則違反が要保護者又はレクリエーション競技者により行われた場合であって、要保護者又はレクリエーション競技者が「重大な過誤又は過失がないこと」を立証することができたときは、資格停止期間は、要保護者又はレクリエーション競技者の過誤の程度により、最短で資格停止期間を伴わない譴責とし、最長で2年間とする。


B検体で陰性になった場合

ドーピング検査で採取した検体は、AとBの2つに分けられ、まずA検体で分析が行われます。その結果として禁止物質が検出された場合、競技者がその段階で結果を認め、処分を受け入れれば、その結果が確定します。しかし、競技者がA検体での検査結果を認めない場合は、B検体を使用した再検査を要求できます。B検体での再検査で禁止物質が検出されなければ、処分は取り消されます。先の3つの場合と異なり、違反の事実自体がなかったということになるので、処分の軽減ではなく、処分自体がなくなります。

7.4 暫定的資格停止に関する原則

7.4.5 A検体の違反が疑われる分析報告に基づき暫定的資格停止が賦課されたが、それに続くB検体の分析(競技者又はアンチ・ドーピング機関の要請がある場合)がA検体の分析結果を追認しない場合には、競技者は第2.1 項の違反を理由としてそれ以上の暫定的資格停止を賦課されないものとする。


処分の軽減なのか取り消しなのか

さて、今回のワリエワ選手に対するRUSADAの対応では、暫定資格停止処分を下した翌日に、ワリエワ選手側からの事情説明を受けて、処分を解除したと報道されています。報道が正しければ、処分の軽減ではなく、処分そのものが取り消された、ということのようですので、最低でも「譴責」処分が残る「うっかりドーピング」「汚染成分が原因」「要保護者」のパターンは当てはまらないように思われます。「B検体で陰性になった場合」であれば、報道のとおり「処分が解除(取り消し)」になりますが、ワリエワ選手側から事情を聴いた即日に処分解除となっているところを見ると、B検体での再検査を実施する時間があったとは到底思えません。・・・・となると、報道されているような「1日で処分解除」になるようなパターンが正直思いつかないのです。


一方、もし、報道に誤りがあって、処分の「解除」ではなく「軽減」であり、資格停止期間なしの譴責のみになったのだとすれば、「ドーピングの事実はあったが要保護者であり意図的でもないから」という理由で説明はつきます。その場合、資格停止していないので今回の五輪には出場できますし、今大会のドーピング検査では陽性になっていないので、今大会での成績も取り消されることはありません(ロシア選手権の成績は取り消されるでしょう)。


以上、いろいろ推測してみましたが、とにかく情報が不足しているので、ワリエワ選手が現在どのような立場なのかがよくわかりません。禁止物質が検出されたという事実がある以上、それに対する処分がどのような理由で軽減ないし解除されたのか、RUSADAは明確に説明すべきです。


追記2(2022.02.14)

CAS(スポーツ仲裁裁判所)の裁定が出ました。ワリエワ選手が「要保護者」であることを理由に、RUSADAの処分解除の判断を妥当とし、IOCなどの提訴を棄却しました。


どうやら、16歳以下の「要保護者」であることによる処分軽減で資格停止期間なし、というのがRUSADAの判断だったようで、CASもそれを妥当と認めたわけです。ただ、この場合でも、上で述べた通り、「譴責」の処分はなされるはずなのですが、その点についてはどの報道も触れないのでよくわかりません。もっとも、「譴責」に実質上のペナルティー効果は皆無なので、マスコミとしては興味もないのでしょう。譴責の有無は別として、要保護者であることを理由として資格停止期間をなしにすること自体は、上述のとおり、世界アンチドーピング規程上可能ですから、CASとしてもそれを認めたということだと思います。


不可解のなのは、CASが、今回の裁定は「出場の可否」についてだけのものであり、団体戦の金メダルについての裁定とは別であると表明していることです。これは意味不明です。「出場は認めるがメダル獲得は認めない」などということが一体どういう理屈で可能になるのでしょうか。出場を認める以上、その競技結果も認めるのが当たり前です。競技結果が認められないというのであれば、出場自体を認めなければよいのです。


裁定は出ましたが、どうにも腑に落ちないことが多く、この問題をめぐる議論はまだ続きそうです。


追記3(2022.02.15)

昨日の追記以降、さらに報道を見聞きして、昨日の僕の理解が間違っていることがわかりました。


そもそもRUSADAは今回のドーピングに関してまだ調査中で何の判断も下しておらず、したがって何の処分もなされていないのだそうです。「譴責のみの処分に軽減されたから出場できる」のではなく、「今後どうなるかわからないから出場させる」ということらしいのです。しかし、それなら陽性が発覚した最初の段階でなぜ暫定資格停止処分にしたのでしょうか。その時点も今以上にどうなるかわからなかったはずですが。迷走しているようにしか見えません。


RUSADAの主張を妥当と認めたCASも基本的に同じ考えのようで「どうなるかわからない状況で出場機会を奪えば取返しのつかないことになる」と主張しています。処分がどうなるかわからないから出場は認めるが、処分が決まればその内容次第で団体の金メダルを含め競技結果を取り消す可能性がある、という趣旨だそうです。気持ちとしてはわからないではありませんが、世界アンチドーピング規程上の根拠を示せない裁定では、超法規的措置ということになり、後々禍根を残すのではないでしょうか。WADAが怒るのも当然でしょう。それに、出場させておいて後からメダルを剥奪するような事態に立ち至った場合、それは「取り返しがつく」とCASが考えているとすれば、それは誤りだと思います。


追記だらけになるので、続きは別記事にしました→【ドーピングではないけど】ハイポキセンってどんな物質?